設立の背景
本文書は、岩波書店発行「科学]4月号において詳述する「“脳を活かす”新しい潮流」という論考の中から、あらすじだけを抜き出して提示したものである。論考全体に関して、「科学」4月号をぜひ参照されたい。
1.脳を活かす研究の背景
過去50年間の世界の脳研究の進歩はめざましく、数々のノーベル賞受賞研究に代表されるように、物質基盤にもとづいて神経系の機能が理解できるようになりました。最近20年間では、脳活動の非侵襲計測手法が開発され、分子生物学の実験手法が導入され、計算理論が発展するなど、基礎研究としての脳科学は、人類に残された最大のフロンティアである脳と心の理解に向けて、着実な歩みを進めています。わが国においてはNPO法人「脳の世紀」などにより、脳研究推進、啓発活動を繰り広げてきました。これを受けて、「脳科学の推進」策が施行され、日本の脳研究も急激な進歩を遂げました。その結果、脳を活かす研究としてその成果を社会に還元する段階に至りました。
これまで、脳研究の応用は、脳を疾病から守る医療、人工内耳、人工網膜チップ、ニューロコンピュータ技術、ロボットへの応用など、比較的限られていたといえます。しかし最近の脳研究の進歩により、一般社会の生活に大きな影響を与える可能性を秘めた応用研究が生まれつつあります。脳情報を解読、利用し、脳を情報通信機器に直接繋ぎ、脳情報を医療、経済、商品化、社会活動、政治、教育、娯楽、通信、機械制御、日常生活に役立てるなど、さまざまな脳を『活かす』研究が続々と生まれてきています。
2.脳を読む
『脳を読む』研究は、動物実験による脳の情報表現の着実な研究と、過去15年間に爆発的な進歩を遂げた非侵襲脳活動計測技術をベースに、人の主観的な意識や意図、さらに無意識下の情報までを脳から読み出すことを可能にしつつあります。これらは、ニューロゲノミクス、ニューロエコノミクス、ニューロマーケティング等の刺激的な名前のもとで研究が展開しています。これらの新興研究は基礎科学としての魅力があることはもちろんですが、商品開発、宣伝、人材のリクルートなど、企業の観点から見ても、経済活動に大きな影響を及ぼす可能性があり、また現に及ぼしつつあるという意味で、無限とも言える応用の可能性を秘めています。
例えば神経科学者と経済学者が協同で、経済行動における人々の様々な決断過程を脳科学から理解しようとするニューロエコノミクスの分野では、今後10年の間にノーベル賞受賞研究が現れるだろうと予想する一流の脳科学者もいます。またコカコーラとペプシの飲み比べで、ブランディングの影響を脳科学として明らかにしたことで有名になったニューロマーケティングは、すでに日本国内でも複数の企業が実際に製品開発に利用しようとするなど、実用段階に入ろうとしています。
遺伝子多型と認知機能が良く対応し、さらにそれに基づいて個人の政治的性向が説明できることを示したニューロゲノミクスやニューロポリティクスは、一般の人々が自分自身をよりよく理解し、よりよい暮らしをするための科学的な指針を与えます。このような研究と経済活動は脳のデータベースを必要としますが、それを支えるのがニューロインフォマティクスです。『脳を読む』研究で最も重要な技術要素は、脳信号から必要な情報を抽出するデコーディング(復号化)技術です。その基礎的研究として、動物を対象とした神経生理学的研究とヒトの非侵襲脳機能計測研究の両方が必要とされます。特に非侵襲デコーディングでは、日本が世界をリードしています。
『脳を読む』は、脳内の情報を計測、デコーディング、データベース化し、オフラインあるいはオンラインで利用する基礎・応用研究です。このように、『脳を読む』の応用的側面は脳情報の利用であり、その基礎的側面は、ヒトの精神活動と社会活動の生物学的基盤の解明といえます。『脳を読む』は動物の研究とヒトの研究が両輪となって進むと考えられます。
3.脳を繋ぐ
『脳を繋ぐ』研究はヒトの能力を拡大するサイボーグ工学、あるいは身障者を助ける福祉工学に革命的な変革をもたらすと期待されています。最近、ヒトと機械を繋ぐコミュニケーション技法が急速な進歩を遂げ、脳とコンピュータ、ロボット、介護装置などの情報通信機器を直接繋ぐことが可能となりました。このブレインマシンインターフェースの技法としては、脳に複数の電極を慢性的に埋め込み、多数のニューロンの活動から使用者の運動の意図などを推定して、それに基づいてコンピュータのカーソルやロボットや義手を制御する脳内型ブレインマシンインターフェース、脳波を記録し、デコーディング処理により必要な情報を取り出して情報通信機器を制御する表層型ブレインマシンインターフェース、機能的磁気共鳴画像法と脳磁図、あるいは近赤外分光法と脳波など異なる脳活動計測手法を組み合わせて、高時間・空間分解能で脳活動を再構成し、有用な脳情報をデコーディングして用いる脳活動型ブレインマシンインターフェースなどがあります。
脳内型ブレインマシンインターフェースは、すでに米国でDARPA、NIHの巨額な研究資金により、ラット、サル、ヒトを対象として、大々的に研究が進められ、大きな成果がえられています。日本でもラットやサルなどを対象とした基礎研究と脳外科などでの臨床応用を目指した研究が進展しています。表層型ブレインマシンインターフェースは、ドイツと米国で応用を見据えた研究が進み、locked
in患者だけではなく、一般の人のゲーム用入力装置としての応用も試みられていて、日本でも研究が進んでいます。脳活動型ブレインマシンインターフェース研究では、日本は近赤外分光法と脳磁図の計測装置の開発を進める複数のメーカーをもち、世界をリードしています。この技術を世界に誇る脳に学ぶロボット技術と組合すことにより、ヒトの意志を読み取って働く革命的な高機能ロボットが生まれると期待されます。
脳に電気信号を直接あるいは間接的に与え、失われた視覚や聴覚を補綴し、重度の気分障害や不随意運動を治療し、操作する研究は、脳深部刺激療法(deep
brain stimulation)などとして進んでおり、特に人工内耳は世界で数万台も使用され、最も実用的なブレインマシンインターフェースといえます。
『脳を繋ぐ』研究は、応用に留まらず、脳科学を進展させる強力なインパクトを秘めています。知の物質基盤や局在を明らかにする分子神経生物学や脳イメージング研究に対し、システム神経科学は、知の働きや計算を明らかにしようとするものです。知のメカニズムがシステムレベルで明らかにされてはじめて、脳を知ることができたと言えるわけです。システム神経科学は脳情報を操作する手段を欠いていました。これが遺伝子を直接操作できる遺伝子工学を持つ分子生物学と比べたときの弱点とされてきました。しかし、脳活動型ブレインマシンインターフェースにより計測した脳情報を様々に処理した上で視覚や聴覚から実時間でフィードバックする、あるいは脳内型ブレインマシンインターフェースにより直接脳内にフィードバックすることにより、システム神経科学のさまざまな仮説を検証する(操作脳科学)ことが可能となります。この意味で脳情報フィードバックは、システム神経科学の明日を切り開く画期的な研究手法と言えます。
脳の入出力を改変することが可能になれば、ここに倫理的な問題が生じます。心の物質的、神経科学的な基盤が明らかになり、脳とコンピュータ、さらに脳とインターネット、人と人との脳を直結する技術が生まれつつあるいま、倫理的な問題をしっかりと考えておくことが必要です。
4.脳と社会−神経倫理の問題
『脳を読む』研究、『脳を繋ぐ』研究を通じて、「性格」と呼ばれてきた行動特徴を説明する物質とそれに対応する認知制御、意志決定の計算機構が明らかになり、ヒトの経済活動、政治活動を生物学的基盤と計算論で解明できる可能性が見えてきました。脳科学と社会との接点の拡大にともない、脳科学の倫理的側面について、脳科学者のみならず、有識者、マスコミ関係者、政治家、社会一般が認識を共有することの重要性が高まってきました。
米国の高名な認知神経科学者であるガザニガはその著書「脳のなかの倫理」で、神経倫理学に関する2つの定義について次のように言及しています---『ニューヨークタイムズ』紙のコラムニスト、ウィリアム・サファイアが「神経倫理学(Neuroethics)」という新語を作り、「人間の脳を治療することや、脳を強化することの是非を論じる哲学の一分野」と定義した。...私は神経倫理学をこう定義したい:病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福に関わる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野である、と。---
前者は、通常の倫理の物差しで脳科学を議論するもの、後者は、脳科学の知見を倫理の議論に生かそうとするものといえましょう。前者は、脳科学応用に危険性を見る悲観論に、後者は、脳科学者による科学的事実の独断的、楽天的な解釈に陥りがちです。バランスの取れた神経倫理学の醸成が『脳を読む』、『脳を繋ぐ』研究の発展に不可欠と思われます。
最近の「脳文化人」の出現は後者のタイプの神経倫理学を現代社会が強く求めていることを示しています。しかしながら、俗説をあたかも脳科学の裏付けがあるかのようにマスコミに流すことは、社会と脳科学に対する背信となります。翻って、この現象は、社会一般が脳科学の啓発活動を切実に求めていることの証左であるともいえます。脳と社会の研究は、心、意識、感情、情動の科学的基盤を明らかにし、それに基づいて、社会一般の人々が、自分自身、家族、友達、老化、教育、そして社会などに関する考え方をより豊かにすることを目指します。
以上の様な背景を踏まえ、当研究会は2006年3月13日に発足いたしました(発起人のリストはこちら)。
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